先週はウメジロー撮影で3日連続撮影をするために出かけて、疲れ果てました。
今週は夜散歩で2日連続で小一時間の散歩をして、すでに限界を感じています。
今日は休みます。
先日、若松英輔『読書ができなくなった人のための読書論』を読み終えました。
以前は本を読めていたのに、読めなくなったと感じる人へ向けて書かれている本です。1ページの文字数も少ない目で行間は広くて活字の圧力が低く、読みやすいように配慮されていると感じました。
この本を読んで、たしかに読書をふたたび始めることができるかもしれないと思いましたが、この作品の中で心惹かれたのは次のような箇所でした。
本が読めなくなった、というのは、決まりきった名所見物のような「正しい」読書という旅にはもう、喜びを感じられなくなったということです。
そう考えてみると、読めなくなるというのをきわめて自然なことのように感じられます。<中略>本を読めなくなった、ということは、自分の旅は、自分で作るときがやってきた、という人生からの合図です。
若松英輔『読書ができなくなった人のための読書論』p121
この文章の引用だけでは伝わらないと思いますが、他の箇所でも若松は本を読めなくなったら、自分で文章を書いてみることを勧めています。
読書家の方が書いたテキストは、面白いと感じることが多いので、案外みなさんすでにそうされているのかもしれません。
そして、この「読書」の部分を「写真」に置き換えても同じように読めるように思います。
写真が撮れなくなった、というのは、決まりきった名所見物のような「正しい」撮影という旅にはもう、喜びを感じられなくなったということです。
そう考えてみると、撮れなくなるというのをきわめて自然なことのように感じられます。写真を撮れなくなった、ということは、自分の旅は、自分で作るときがやってきた、という人生からの合図です。
実は私は長編の物語、映画や小説を鑑賞できなくなって久しいです。
鑑賞を試みると30分くらいで止めてしまいます。
短編を読むことや、30分くらいの映像作品なら鑑賞できるのですが。
理由はよく分かりません。SNSの見過ぎなどという、分かったような分からないようなことではないと思います。理由を考えたくない、思い出したくないのかもしれません。
無理して長編作品に触れないと早死にするわけでもないです。このままでもいいのでしょう。でも自分の欠損だと感じていて、取り戻せるなら取り戻したいと思っています。