Pyrographilica

パイログラフィリカ

Ⅰ-2 分類しがたい「写真」

f:id:boundary-line:20200205121213j:plain

  ロラン・バルト『明るい部屋』を再読していきます。興味ない人が多いでしょうから、たたみます。

 

 写真が再現するのは、1度起こったこと。

 それは、アンリ・カルティエ=ブレッソンの決定的瞬間のように、偶発的なもの(あの作品は偶発性の薄い作品ではあったらしいが)、あるがままと受け取られる。

 「写真」を楽しむには、「偶然」の「機会」に「遭遇」した「現実界」の飽きることのない表現の追求なのかもしれない。

 ただし、写真の加工編集が普通になった現在において、この例外となるフェイクニュースなどもある。

 

ある1枚の写真について、目の前にある写真を指して「ほら」、「ね」、「これですよ」などと、語るのは正当なことだが、「写真」一般について語ることは、(逆にそれだけ)ありえない。(p10)

→写真は哲学的に変換して語れない。

 

写真の記号表現を識別するには、知識や反省という行為が必要。(p11)

→内省のこと?

 

 写真に写った被写体はトートロジック。

 例)写真に写った椅子は、椅子だから椅子。常にどうしようもなく椅子。変化しない状態。

 

人が見るのは指向対象(被写体)であって、写真そのものではない。(p12)  
写真そのものは常に見えない。

 

「写真」は薄い層を成す対象(もの)の部類に属していて、その2つの薄い層をこわさずに引き離すことは不可能なのである。(p11)

 例)窓ガラスと風景、善と悪

 

 

 なぜ他のものを選ばずに、この被写体、この瞬間を撮る(写す)のか?

 写真に記号(意味するもの/意味されるもの)が存在するには、写真が任意のものではなくなるために、標識(差異をもたらすもの)が必要。