As with a bicycle, Koide Mawaru

日々の写真にまつわること。

Answer

 いい歳して何をやってるの?と言うのは常識がある人のセリフだろう。

 でも常識的なことは、常識であって、なかなか面白いとは言えないことも多い。面白いことは常識からはみ出した、その部分にやどっていると思う。そこを誰かから評価されると、やっている方としてはうれしくなるのではないか。

 

 人によっては、努力が報われないなら努力しない、という人もいる。それは自由だが、いい評価が得られないなら頑張らないという主張は、子どもじみているなと思う。

 

 頑張ったんだから褒められるという報酬を得たい気持ちは、学生の頃や、何かの趣味の初心者の内は大事だ。

 しかし、そういうことを2,3年経験したら、自分の頑張りは自分で客観的にみられるようになった方が良いのではないか。

 

 褒められるために頑張るというのは、答えあわせをするようなものであり、また他人の評価の中で生きていくことになるわけで、いつまでも他人の評価に右往左往するのは、疲れることになっていくのではないかと思うからだ。

 だいたいその頑張りが誰かとの比較で相対的に評価されたら、もう全然楽しくないだろう。

 周りはもっと頑張っているとか、他の人はもっと効率的に結果を出しているとか言われた日に、もっと頑張らなきゃと思う素直な人は置いておくとして(自分で自分を追い詰めないでほしいなと思う)、放っておいてくれと思うのが正しい反応ではないだろうか。

 ここで私が想定しているのは、仕事ではなく趣味の話である。

 他の人にとってベストな方法を真似ることはできるかもしれない。でもそれが自分にとってのベストな方法になるとは保証されない。自分が頑張れる方法は、割とそれぞれ独自な方法だと思う。

 

 身体的なこと、頭を使うことでも、うまく誰かの真似ができたとしても、100%コピーできることは、まずないと思った方が良い。

 それは身体つき、思考のクセ、生い立ちが違うからだ。

 面白くなるのは真似したい誰かをコピーしようとして、コピーしきれない壁に突き当たった先に拡がる世界を知ったとき、あるいはコピーしようとしてはみ出してしまった自分を知ったときに見えてくるのではないか。

 

 そして面白いものをつくってシェアするときに、誰かから評価されることを待ち受けるのではなく、自分の創作物の面白さを分かち合いたい気持ちを大切にした方がいい。そのためには、自分の創作物についてある程度語れる必要があるだろうが、キャッチボールするときに自分が投げた球を、相手が受け取りやすいように考えていけば、できるようになっていくのではないかと思う。

 ただし、面白いモノの完成度は問わないこと。頭の中でいくら天才的に面白いモノが想像できたとしても、実際につくって見せられる作品の方に価値がある。

 自分の作品を見せる時に大事なのは、完成度を見る人ではなく、アイデアの面白さを見てくれる人に見せること。ネットで誰でも見られる状態でレビューする人が増えると、参考にならない意見がわいてくる。

 作品の面白さは、見る人によってさまざまな受け取り方をされるので、たくさん作品を完成させることで、自分が面白いと思っているモノの形がハッキリ見えてくる可能性もある。

 

 だから謙虚に続けていくこと。

 願うのは、常識に負けませんように、ということかな。