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As with a bicycle, Koide Mawaru

日々の写真にまつわること。

悟り

 《分別のある》写真、(ただストゥディウムだけを充当された写真)を読み取る高邁な動作は、怠惰な動作である(ページをめくり、漫然と急いで眺め、だらだらと先を急ぐ)。これとは逆に、プンクトゥムの読み取り(先の尖った写真の読み取り)は、簡潔で、活発で、野獣のように引き締まっている。

 人を欺く言葉の罠《写真を現像する》というが、しかし化学作用によって現像されるものは、実は展開しえないもの、ある本質(心の傷のそれ)である。

 それは変換しうるものではなく、ただ固執する(執拗な視線によって)という形で繰り返されるだけである。

 この点で、「写真」(ある種の写真)は、「俳句」に近いものとなる。なぜなら、俳句の表記もまた、展開しえないものだからである。そこにはすべてが与えられていて、修辞学的な拡大の欲求や、さらにはその可能性さえ生ずることが無い。

 「写真」と「俳句」のどちらについても、激しい不動の状態、ということができるだろうし、またそういうべきであろう。ある細部(ある起爆装置)によって爆発が起こり、それがテクストの、写真の窓ガラスに小さな星形のひびをいれるのだ。「俳句」も「写真」も、《夢想》を誘うものではない。

 

 前半の写真の見方は、ネットで写真をみる時の緩慢な気分が近いと思った。ネットでは写真がほぼ無限にあるので、そういう状態で集中して写真をみるのはなかなか難しいと感じてしまう。

 しかし、写真展でプリントをみる時は、集中しますね。上手な展示だと、写真の緩急もあるし、集中しやすいのだと思う。

 

 「写真は展開しない」というのはなるほどな話で、写真で徐々に見えてくるという高等技術もあるにはあるけど、普通は写真で見える情報というのは、パッと見で見える範囲のことが提示されるだけで、動きもなく、展開されない。

 徐々に見えてくるテクニックというのも、画面の中を目線があっちこっちに動いて、全体が見えてくるということなので、プンクトゥムがあれば気になる写真になり、無ければパッと見て終わりになってしまう。

 

 「俳句」も「写真」も、《夢想》を誘うものではない。というのは、面白い共通点だと思う。

 ただし、フォトショップで画像を編集できるようになって、写真に創作の要素を入れることはできるようになっている。

 そして、フォトショップが登場する前には、木村伊兵衛の写真には、フレームの外に広がる世界が感じられると言われていたので、これも画面の外へ想像がかきたてられる写真の在り方だと思う。

 しかし、写真はあくまでも、確かにそこにあった、と感じられることが前提だと思うので、バルトの言うとおり「写真」に《夢想》はないのかもしれない。

 「俳句」は詳しくないが、あくまでも情景描写が中心になるからだろうか。情景描写を文字で読んで、場面を思い描けるのは文化的背景を理解できることが前提だから、夢想ではないのかな。完全に脱線だが、ファンタジー俳句とか、SF俳句なんてあったら面白そうだ。

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