As with a bicycle, Koide Mawaru

日々の写真にまつわること。

無意志的特徴

 ある種の細部は、私を《突き刺す》ことができるらしい。もしそれが私を突き刺さないとしたら、それはおそらく、写真家によって意図的にそこにおかれたからである。

 私の関心を引く細部は、撮影された事物の場に、不可避でもあり無償でもある補足物として存在する。それは必ずしも写真家の技量を証明するものではない。ただ、写真家がその場にいたことを告げるだけである。あるいはまた、それよりもさらにわずかなこと、つまり、写真家がある対象全体を撮ると同時に、他の対象をも部分的に撮らざるをえなかったということを告げるだけである。

 「写真家」の透視力は、《見る》ことによってではなく、その場にいることによって成り立つ。そしてとりわけ「写真家」は、オルフェウスと同じように、自分が写してきて見せるものを振り返ってみてはならないのだ。

 

 

 ここで出てくるプンクトゥムの無意志さ。意図してしまうとダメというのは、やっぱりかという感じ。

 他の部分でも感じることだが、バルトは《見る》ことよりも、その場に居よと言うのは、スナップ写真こそが写真家の目指すべき場所と言っているように感じる。

 しかし、写真家が自分の写真を振り返ってはいけないというのは、物理的に見返してはいけないのか、精神的な振り返りをしてはいけないのか、よく分からない。

 オルフェウスの話を調べた限り、振り返ってはいけない、ということは確かなようだ。