As with a bicycle, Koide Mawaru

日々の写真にまつわること。

プンクトゥム「部分的特徴」

 たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例を挙げていくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。

 プンクトゥムというものは、道徳や上品な趣味を特別に好む訳ではない。無作法であって構わない。

 プンクトゥムは、どれほど電撃的なものであっても、多かれ少なかれ潜在的に、ある拡大の能力を持つ。この能力は、往々にして換喩的に働く。

 逆説的なことだが、プンクトゥムは依然として《細部》でありながら、写真全体を満たしてしまう。

 

 写真全体を満たすというのは、写真のなかで気になって仕方ない部分を生み出すという意味だと思う。

 これは写真をよく観察しないと、見えてこない《細部》なのではないか。ものすごく、写真をよく読むような。

 バルトは、アンディ・ウォーホールの肖像写真で、彼の爪が黒く詰まっていることが、プンクトゥムだと書いている。

 他にも例を挙げていて、小さな男の子の歯並びが悪いこと、風景写真の土が踏み固められた道など、気にしなければ通り過ぎてしまう《細部》のように思った。

 

 先日入江泰吉の写真を観たときに、五重塔のすぐ横に電線が通っていたり、田んぼのあぜ道に道石が置かれていたり、そういうことが気になると、写真の見え方というか、写真の力がぐっと変わったことを感じた。

 そういうことが、プンクトゥムなのかもしれない。