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As with a bicycle, Koide Mawaru

日々の写真にまつわること。

ストゥディウムとプンクトゥムの共存

ストゥディウム(一般的関心)

 あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れ。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがある訳ではない。私が多くの写真に関心を抱き、それらを政治的証言として受け止めたり、見事な歴史的画面として味わったりするのは、そうしたストゥディウム(一般的関心)による。というのも、私が人物像に、表情に、身ぶりに、背景に、行為に共感するのは、教養文化を通してだからである。

 

プンクトゥム

 ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るもの。写真からやって来るもの。

 

 ごく普通には単一なものである写真空間の中で、ときおりある《細部》が、私を引きつける。その細部が存在するだけで、私の読み取りは一変し、現に眺めている写真が、新しい写真となって、私に目にはより高い価値をおびて見えるような気がする。そうした《細部》がプンクトゥム(私を突き刺すもの)なのである。

 ストゥディウムとプンクトゥムの関係に、規則を定めることは不可能である。重要なのは、両者が共存するということであり、いえるのはただこれだけである。

 

 

 

 この「明るい部屋」で、何度も取り上げられるのが、ストゥディウムとプンクトゥムである。(入力しづらい言葉である)

 読んでいくと、プンクトゥムという《細部》を何とか自分の写真に取り入れたいと思うが、どうも偶発的にしか撮りえないものに思える。
その《細部》は、自分で撮れたと思えることもあるのかもしれないが、《細部》なので、写真を見る誰しもに必ず伝わる訳ではない、ということかもしれない。

 先日、入江泰吉記念写真美術館で田淵三菜さんの写真を観たときは、「明るい部屋」を読んでから行ったのだが、確かに田淵さんの写真には、プンクトゥムを感じられた。

 田淵さんの写真は、嬬恋村の森の四季を撮ったものだった。森の中で見つけられた、きのこや葉、雪が積もり、融けていくさま、そういった写真を観たことが無い訳ではない。

 田淵さんの被写体に対する愛着がよかった(たぶんストゥディウム)ことに加えて、森を歩き回って見つける被写体を、特別にきれいに見せようとしないことが《細部》だったのかなと思う。

 周りに人間のゴミがあったり、森がクモの巣だらけだったりしない、ある種の快適な森があったから、撮れた写真だったのかもしれない。

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