読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

As with a bicycle, Koide Mawaru

日々の写真にまつわること。

意味すること

社会というものは、純粋な意味に対して警戒心を抱くものらしい。社会は意味を浴するが、しかしまた、それと同時に、その意味が雑音をともない、雑音によって鈍くなることをも欲するのである。それゆえ写真は、その意味があまりにも強烈すぎると、ただちに意味を曲げて受け取られる。政治的に消費されずに、美的に消費されてしまう。

 

 バルトが生きた時代、1980年くらいまでの社会で書かれた内容だが、現在の日本社会でも十分通用する話のように思う。

 ちょっと意味が違ってくるかもしれないが、オリンピックのメダリストが、競技生活ではなく、私生活に興味を持たれること。俳優が表現力の高い演技をした映画の試写会で、プライベートを聞かれること。有名な表現者となったときに、その人のゴシップを教えたがるマスコミと知りたがる大衆。

 表現者の表現だけを純粋に受け取って楽しむことが、崇高な楽しみ方とは言わないが、興味本位の噂話をレイヤーを入れることで、表現者人間性を知り、自分の身近に、あるいは同じ人間だと感じたい欲は、ある一定の人が持っている関心なのだろう。

 純粋に研ぎ澄ませた写真と言われて、個人的に思い出す写真群はメイプルソープの写真だ。当時の彼の写真に対する社会的反応をよくは知らないが、彼のプライベートを含めて、写真がゴシップ的に消費された部分は、小さくないと思う。

 

 バルトは美的に消費されることに対して否定的なニュアンスで書かれているが、これは最後のあたりで写真の本質に迫る箇所で、写真を芸術にしてしまうと、写真の狂気が骨抜きにされてしまうと書いている。

 政治的に写真が消費されることが良いというニュアンスで書いているのは、個人的には受け入れがたい。個人的には、政治を知るのは大事だと思う。表現で政治に物申すスタンスは好きじゃないが、まだいい。表現者がメディアで発言したり、書いたりするもので政治を批判すると、専門外を感情的に批判していると感じられて、萎えてしまうことが多い。

 

《すぐれた》写真のどれについても言えることは、せいぜいその被写体が語るということ、被写体が漠然と考えさせるということだけである。しかも、それさえ危険視される恐れがある。究極的には、まったく意味を持たないほうが安全なのである。
「写真」が秩序壊乱的なもにとなるのは、恐れさせ、動転させ、さらには烙印を押す時ではなく、それが考え込むときなのである。

 

 バルトは安全な方を選んだ方がよい、と薦めているのだろうか。個人的には、後半の写真が秩序壊乱的になって欲しいと思っていたようにみえるのだが。バルトの他の著書も読んでみないと、バルトの考えの流れが、ここだけでは見えない。

 現在でも「被写体が語っている写真、被写体に漠然と考えさせられる写真」を見ることはある。が、そこが表現の頭打ちになっているようだとも感じる(自分は棚に上げておくとして)。

 今でも秩序壊乱的な、考え込ませるような写真もあるのかもしれない。それは私の写真を見る目が、肥えてはいないという自己認識があるからだ。

 しかし現在の社会で、考え込ませるような表現を享受できるのは、ごく一部の人間で、大半の人は「分かりやすさ」を求めているのが、実情ではないだろうか。

 多くの人が求める「分かりやすさ」が顕著にあらわているのは、トランプ大統領の誕生をはじめとする、世界情勢の流れに現れていると感じる。

 ネットでもリアルでも、さまざまな情報が溢れすぎていて、時間をかけてひとつひとつを吟味する、考えることができなくなっている、あるいは望まれていないことなのかもしれない。

 

 バルトの生きた時代でも、写真は骨抜きにされつつあったのかもしれないが、現在では写真撮影者にも受け手の社会にも、もう骨が無いのかもしれない。

広告を非表示にする