As with a bicycle, Koide Mawaru

日々の写真にまつわること。

無意志的特徴

 ある種の細部は、私を《突き刺す》ことができるらしい。もしそれが私を突き刺さないとしたら、それはおそらく、写真家によって意図的にそこにおかれたからである。

 私の関心を引く細部は、撮影された事物の場に、不可避でもあり無償でもある補足物として存在する。それは必ずしも写真家の技量を証明するものではない。ただ、写真家がその場にいたことを告げるだけである。あるいはまた、それよりもさらにわずかなこと、つまり、写真家がある対象全体を撮ると同時に、他の対象をも部分的に撮らざるをえなかったということを告げるだけである。

 「写真家」の透視力は、《見る》ことによってではなく、その場にいることによって成り立つ。そしてとりわけ「写真家」は、オルフェウスと同じように、自分が写してきて見せるものを振り返ってみてはならないのだ。

 

 

 ここで出てくるプンクトゥムの無意志さ。意図してしまうとダメというのは、やっぱりかという感じ。

 他の部分でも感じることだが、バルトは《見る》ことよりも、その場に居よと言うのは、スナップ写真こそが写真家の目指すべき場所と言っているように感じる。

 しかし、写真家が自分の写真を振り返ってはいけないというのは、物理的に見返してはいけないのか、精神的な振り返りをしてはいけないのか、よく分からない。

 オルフェウスの話を調べた限り、振り返ってはいけない、ということは確かなようだ。

週報170319

 今週の撮影は、久しぶりのボランティア団体の撮影のみ。

 今週は連日アルバイトの応募とその対応に明け暮れたので、気力を消耗して、疲れてしまった。今は写真を撮りたい気分じゃない。

 

ボランティア

 講演会と交流会の撮影だったので、特別いい写真が撮れたわけではない。

 撮影後の編集を頑張るのはいつも通りだが、いい写真でスライドショーをつくったことが、意外に好評だった。

ついにデビュー!! : いちにんげんのきもち

 

ブログ

 明るい部屋の感想を、ちょっとずつ書き始めた。先が長いので、ぼちぼち続けていくつもり。

 

グループ展参加

 ギャラリーを運営している方とお話してきた。写真が専門ではない方だったので、余計なおせっかいかもしれないけど、助言めいたことを話した。

 ギャラリーも下見してきたけど、広くはないが、雰囲気のいいギャラリーだった。

 展示初心者向けのイベントにしてはどうですか?というお話をしたので、今後HPで、そういう情報も出てくるかもしれない。

「カメラヴ3」作品募集中 - 大阪市北区|中崎町|貸しギャラリー|モノコト


インスタグラム

 当初、フォロワーの数がぐいぐい増えたが、その後完全に頭打ちになってしまい、なんだかおもしろさも無くなってきた気がしている。

 季節の変わり目と、今週の疲れ具合で、そんな風に思っているのかもしれないが、インスタに疲れたことは確かな気もする。

 今はこれまで通り続けるのもしんどいので、今後どうするか、また気分が安定してきたら、何か変えるかもしれない。

 

アルバイト

 今週はアルバイトを探し続けた週になった。普通のアルバイトも探したが、この歳でおすすめのバイトは、清掃か警備員になってしまうらしく、ものすごくつまらなそうで、やりたいと思わない。

 どうせやるならと、カメラマンとか写真撮影のバイトを探してみたが、まず第一に20~30代が中心の求人しかなく、これじゃ採用されても肩身が狭そうだった。

 また、多い求人はブライダル関連、次いで七五三など家族の記念写真、どんな写真を撮るのかわからないスタジオ勤務が多かった。

 被写体が人となるカメラマンは、コミュニケーション能力、明るく元気、ということが求められる傾向が多く、自分には不向きなことを求められるので、カメラマンのアルバイトは諦めた方がよい、という結論になった。

 自分の場合、言葉でコミュニケーションすることが、辛さであり、難しさなので、写真という表現方法を通じて、なんとかコミュニケーションができるのである。

 そういう人向けかなと思う物撮りの求人もあったが、拘束時間が長そうで、諦めてしまった。

 

余談

 ここ8年ほど、写真を撮ること、見せることで、自分の承認欲求を満たそうとしてきたことは、ここに来て限界を感じ始めている。しかし、自分の写真活動が、すべて承認欲求を満たす行動だとも思っていない。

 私がウェブで活動を続けている、このブログ、SNSねとらじなど、時に「自己顕示欲乙」と嫌味を言われることもあるが、私の目線は自己顕示して承認されることの先にある。

 それは、私と同じような活動を行い、似たようなことを考えている人と、情報交換なり意見交換がしたいという、自分と同レベルの仲間さがしがしたのである。

 そのためには、自分の手の内を晒すことは当然だし、自分で正しいか間違っているかも分からない勉強の話も出していかないと、自分のレベルや志向を他人に認識してもらえないと考えている。

 もっとも、そのためには文字で自己表現することも、もっと読んで分かりやすくしていかなければならないが。

 手っ取り早く仲間さがしができる、社会人サークルなどを探しているが、見つかるかどうかも分からない仲間さがしは、続けていくと思う。

 

 ボランティア活動で、自己承認の先にある所属欲求にも少しはウェイトがのってきた。しかしボランティアできる頻度が多くないため、十分ではない。もっと他団体も含めて、ボランティアの撮影はしてもいいのかもしれない。

 誰かの役に立つことで、自分の写真を活かして参加できる活動は、なかなか無いと思うが、探し続けないと見つからないだろうな、とも思っている。

プンクトゥム「部分的特徴」

 たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例を挙げていくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。

 プンクトゥムというものは、道徳や上品な趣味を特別に好む訳ではない。無作法であって構わない。

 プンクトゥムは、どれほど電撃的なものであっても、多かれ少なかれ潜在的に、ある拡大の能力を持つ。この能力は、往々にして換喩的に働く。

 逆説的なことだが、プンクトゥムは依然として《細部》でありながら、写真全体を満たしてしまう。

 

 写真全体を満たすというのは、写真のなかで気になって仕方ない部分を生み出すという意味だと思う。

 これは写真をよく観察しないと、見えてこない《細部》なのではないか。ものすごく、写真をよく読むような。

 バルトは、アンディ・ウォーホールの肖像写真で、彼の爪が黒く詰まっていることが、プンクトゥムだと書いている。

 他にも例を挙げていて、小さな男の子の歯並びが悪いこと、風景写真の土が踏み固められた道など、気にしなければ通り過ぎてしまう《細部》のように思った。

 

 先日入江泰吉の写真を観たときに、五重塔のすぐ横に電線が通っていたり、田んぼのあぜ道に道石が置かれていたり、そういうことが気になると、写真の見え方というか、写真の力がぐっと変わったことを感じた。

 そういうことが、プンクトゥムなのかもしれない。