読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

As with a bicycle, Koide Mawaru

日々の写真にまつわること。

週報1700326

EOS 7D Weekly_Report animal

 今週は撮影も編集もゼロ。

 

 

 自分のライブラリを見返してみれば、1月はかなり撮っているが、2,3月は低調だった。

 その代り、3月は本を読んだり、作ったりした。

 そして気まぐれで、バイトしようと考えたのが、生活の足を引っ張ってしまった。得るものは無かった。

 今週と来週は、本を読んだり、映画をみたり、ゲームしたりで、次に何しようか考えながら、小休止の週にしよう。

 

レンタルボックス

 今週末から地元のレンタルボックスでの販売が始まる。

 ポストカードなので、そんなに売れないだろうし、利益も小さいだろうけど、楽しみではある。

悟り

EOS 7D 明るい部屋 Film animal

 《分別のある》写真、(ただストゥディウムだけを充当された写真)を読み取る高邁な動作は、怠惰な動作である(ページをめくり、漫然と急いで眺め、だらだらと先を急ぐ)。これとは逆に、プンクトゥムの読み取り(先の尖った写真の読み取り)は、簡潔で、活発で、野獣のように引き締まっている。

 人を欺く言葉の罠《写真を現像する》というが、しかし化学作用によって現像されるものは、実は展開しえないもの、ある本質(心の傷のそれ)である。

 それは変換しうるものではなく、ただ固執する(執拗な視線によって)という形で繰り返されるだけである。

 この点で、「写真」(ある種の写真)は、「俳句」に近いものとなる。なぜなら、俳句の表記もまた、展開しえないものだからである。そこにはすべてが与えられていて、修辞学的な拡大の欲求や、さらにはその可能性さえ生ずることが無い。

 「写真」と「俳句」のどちらについても、激しい不動の状態、ということができるだろうし、またそういうべきであろう。ある細部(ある起爆装置)によって爆発が起こり、それがテクストの、写真の窓ガラスに小さな星形のひびをいれるのだ。「俳句」も「写真」も、《夢想》を誘うものではない。

 

 前半の写真の見方は、ネットで写真をみる時の緩慢な気分が近いと思った。ネットでは写真がほぼ無限にあるので、そういう状態で集中して写真をみるのはなかなか難しいと感じてしまう。

 しかし、写真展でプリントをみる時は、集中しますね。上手な展示だと、写真の緩急もあるし、集中しやすいのだと思う。

 

 「写真は展開しない」というのはなるほどな話で、写真で徐々に見えてくるという高等技術もあるにはあるけど、普通は写真で見える情報というのは、パッと見で見える範囲のことが提示されるだけで、動きもなく、展開されない。

 徐々に見えてくるテクニックというのも、画面の中を目線があっちこっちに動いて、全体が見えてくるということなので、プンクトゥムがあれば気になる写真になり、無ければパッと見て終わりになってしまう。

 

 「俳句」も「写真」も、《夢想》を誘うものではない。というのは、面白い共通点だと思う。

 ただし、フォトショップで画像を編集できるようになって、写真に創作の要素を入れることはできるようになっている。

 そして、フォトショップが登場する前には、木村伊兵衛の写真には、フレームの外に広がる世界が感じられると言われていたので、これも画面の外へ想像がかきたてられる写真の在り方だと思う。

 しかし、写真はあくまでも、確かにそこにあった、と感じられることが前提だと思うので、バルトの言うとおり「写真」に《夢想》はないのかもしれない。

 「俳句」は詳しくないが、あくまでも情景描写が中心になるからだろうか。情景描写を文字で読んで、場面を思い描けるのは文化的背景を理解できることが前提だから、夢想ではないのかな。完全に脱線だが、ファンタジー俳句とか、SF俳句なんてあったら面白そうだ。

無意志的特徴

EOS 7D 明るい部屋 animal

 ある種の細部は、私を《突き刺す》ことができるらしい。もしそれが私を突き刺さないとしたら、それはおそらく、写真家によって意図的にそこにおかれたからである。

 私の関心を引く細部は、撮影された事物の場に、不可避でもあり無償でもある補足物として存在する。それは必ずしも写真家の技量を証明するものではない。ただ、写真家がその場にいたことを告げるだけである。あるいはまた、それよりもさらにわずかなこと、つまり、写真家がある対象全体を撮ると同時に、他の対象をも部分的に撮らざるをえなかったということを告げるだけである。

 「写真家」の透視力は、《見る》ことによってではなく、その場にいることによって成り立つ。そしてとりわけ「写真家」は、オルフェウスと同じように、自分が写してきて見せるものを振り返ってみてはならないのだ。

 

 

 ここで出てくるプンクトゥムの無意志さ。意図してしまうとダメというのは、やっぱりかという感じ。

 他の部分でも感じることだが、バルトは《見る》ことよりも、その場に居よと言うのは、スナップ写真こそが写真家の目指すべき場所と言っているように感じる。

 しかし、写真家が自分の写真を振り返ってはいけないというのは、物理的に見返してはいけないのか、精神的な振り返りをしてはいけないのか、よく分からない。

 オルフェウスの話を調べた限り、振り返ってはいけない、ということは確かなようだ。